昭和46年01月22日 朝の御理解



 御理解 第97節
 「神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。」

 神を拝む者は、神様に向かう姿勢ですね。厳しく教えておられます。神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、たとえ後ろから槍先で突かれるようなことがあっても後ろへ振り向くことはならん。神様へ向こうて、言わば、御祈念中に、物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かん。これは、拝む姿勢という事をそのまま、信心をさせて頂く者の姿勢であるという事も言えると思うですね。
 拝む時だけではない、信心を頂いておる者の姿勢。皆さんどうでしょうか、御祈念中に、横の人がいびきをかいて、ぐうぐう言うて、高ういびきのすると、どんこん御祈念が出来んと言ったような事はありゃしませんか。外で物声が、話声やらすると、もう御祈念が邪魔になって出来ない。私はもう、このごろ、四時の御祈念の時には、もう、いわゆる、もう晩ですからね、祝詞もなんも奏上しません。ただ御神前に、いわゆる、心中祈念をさして頂くのですけども。
 ちょうど、少年少女会が、楽の稽古をいたしますから、もう耳元で、大きな声を出します。けれども、だんだんおかげを頂いてから、御祈念は、当たり前にこう出来るんです。それで、聞こえてはきます。聞こえんていう事じゃない。全然聞こえんという事ではないですけれども、御祈念はきちんと出来る。それで御祈念が、しにくいという事はない。ですから、どういう事かと思うんですけれども。
 やはりその聞く音を自分の物にすると言うか。言うならば、、一つのリズムという物を、その向こうからガチャガチャ聞こえてくる、そのリズムにこちらが乗るというかね、リズムに乗って御祈念をすると。だからかえってこう御祈念がし良い様な感じがする。やはりそういう工夫もいるようですね。けどもここにははっきりと「物声を聞くようでは神に一心は届かん」とこう仰る。けれども実際は聞こえると。
 けれども聞こえる事が邪魔にならないということだ。やはり稽古です。物音が聞こえて来ても、それが邪魔にならないという事だと。そりゃ本当に何というでしょうかね、神様と、まあ私共が、御祈念の交流いたしますね。神様と交流するという。これはもう物音がしないではなくて、天地がそのまま静まりかえったような、一瞬がありますね。そういうおかげも受けられる。物音を聞く段でない。
 もう天地がいちいち、こう静止してしまったかと思われるようになります。例えて言うと、ほんなら自動車がこの前を、あんなに、ひっきりなしに通っておりますけれども、いよいよ神様と通う時にはですね、その自動車の物音が止まるじゃなくて、ピシャッとその間ね、自動車が、空間が出来るんです。そういう働きもありますね。いわゆる、それは何秒間かではあってもですね。
 必ずしも何十分も繰り返し繰り返し拝まんならんという事ではない。私の有り難いなら有り難いと思う心がです、その一瞬に、神様が、ぱっとこう受けて下されば良いのであるから。一心が、言わば、その時届けば良いのである。そしてそういう意味でならば、なるほど、物音は聞こえん。聞こえんち、物音が一遍、静止してしまう。神様はういう働きも下さる。かと言うてほんなら三十分、例えば私共は朝の御祈念なんか一時間なら、一時間御祈念をさせて頂きます。
 それはもう本当に物音ひとつしない中に静まった静かな時ですね。朝の四時から五時までの時間と言うのはやっぱ静かな時ですけども。けれどもやはり聞こえん事はない。やっぱ聞こえるけれども御祈念には祈っておる、それが乱されるという事はない。その為に御祈念が出来んという様な事はない。だからここに「神に一心が届かぬ」「物音を聞くようでは」という事は物音を聞いても、その物音に邪魔にならないという事。
 又はこれは言うならば、私と神様というのは、そういう御祈念によって交流しておる時、もうその時にはです。本当に天地が一時、静止したかと思われるような一時があるという事。その間に神様と通う。同時にここには「例え槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならん」とこう仰る。御祈念中に電話がじゃんじゃんかかってくるとかしましょうがね。御祈念を途中でやめちから、はいはいち言うて電話の方へかかるという事なんか、これはもう振り向いたとこですよね。
 私はなんか映画で見せて頂いたんですけれども、太鼓を叩いて一生懸命、南無妙法蓮華経と拝みよる。そしたらその、孫が後ろの方の水屋の中から、何かを探しよるとです。はあ、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、あぁあれはあそこの所にあるようち、言うてから拝みながら、後ろの孫に教えなさるところをおかげを頂いた事がある。まあ本当に笑い話のようですけれども。
 私共が一時一旦、神様に向こうたらやはりそのくらいな、やはり姿勢が必要ですね。電話が掛かって御祈念中に電話が掛かって来よる、その電話などが例えば、本当な電話じゃないんだと思い込まして頂けれるくらいのもの。大した用じゃないと。言うぐらいな、私は神様に向かうという事は、そのことだとこう思うんです。そこでこれは、まあ拝む姿勢でございますけれども。
 この神に心を向けるというか、神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからというところを、いよいよ自分がが心を神様に向ける、いわゆる信心をさせて頂く者は、という事にも、ここは頂けると思います。信心をさせて頂いて、少し熱心になってまいりますと、いろいろな雑音が入ってまいりますよね。あっちはこのごろ、合楽にぼうけよるじゃなかじゃろうかち言うふうに、物音が聞こえてくる。
 だからそれを聞いて、ああ、人にこりを積ましちゃならんと言うて、こっそり参るような事じゃいけんというような事も言えるですね。人が、言うならば、笑うても、そしっても、言うならば、それを生涯、邪魔になるような事をするような事があってもです。そこをやはり貫かして頂くという事。もう信心という事は、やはり貫くという事なんですからね。そこんところをひとつ頂いて貰いたい。
 今日は、私、御神前で、御祈念中に頂いたのがね。いわゆる、逃げ腰になっては、いわゆる、逃げかかっておる。それを後ろからですね、その人の帯をこう掴んで、後ろへこう引いたところを頂いた。ところが、帯が、ぱらぱらっとこう解けてしまってね、その、まあそこを逃げおおせたというところです。どういうことか分からなかった。皆さんは想像つくでしょうか。そこに、逃げ腰になっとる。
 そしたらこちらの人がそれを、こう逃がすまいとして後からこう、その人の帯を掴んだ。ところがその帯が解けたもんですから、自分はそこで逃げおおせたとこういうのです。どういう意味だろうかと。ここでは「信心の帯をしっかりせよ」と仰る時に、御理解頂きますから、まあ帯という事は、信心の帯という事だとこう思うた。だから帯が解けると言うのですから、信心の帯が解けたという事になります。
 けれどもまあどういう事か分からなかったけれど、今朝、御理解を頂いてみますと、九十七節を頂きました。今私皆さんに信心の姿勢。信心をさせて頂く者の姿勢。または神様へ向かう、いわゆる御祈念をする者の姿勢を、例えばここの九十七節のいわば軸から、まあ申しましたような事を聞いて頂いた。神様に一心が届くという事は、それこそ一心不乱。心を乱さずに、一心不乱に拝む。
 「物音、物声を聞くようでは神に一心は届かん」と仰るが、やはり私共は、物音を聞く。聞くけれども、その物音が邪魔にならないおかげを頂かして貰う稽古。場合には、私共が神様と、いよいよ本当に一心が交流する時は、一時、天地が止まったかと思われるような一時があるといったような事は、これは私の信仰体験から聞いて頂いた。そこでこれは、拝むという事だけではない。信心する者の姿勢としてです。
 それはいろいろ水をさす人があります。だからというて、信心を緩めるような事があってはならん。もうただ一筋に一心不乱に神様へ向かうという事。これは拝む姿勢ではなく信心さして頂く者の姿勢。でなからなければ「神に一心は届かぬ」と仰せられるのですから。私の思いというものがです、このように思うておりますという思いを現す事が、例えば、振り切ってでも、そこんところを一心に行く事だと思うんです。
 自分の思いを貫くという事。場合には、そういう雑音が入ってくることもある。あんたがこのごろあんまり合楽合楽て参るから、人が笑いよるよという様な風に、注意してくれる人があるかもしれん。そうじゃろのとほんならまあ、っそりお参りしようと。そんなら、きっと三べんに参るとは二へんにしようと、イウヨウナモノではなくてです。そういう雑音が聞こえてきても、そういう事に耳を貸さないと言う事。
 槍先で突かれてもと、それはもう本当に槍先で突かれるような、本当後ろを振り向かなければおられないような、例えば事態があってもです。やはり自分の思いは曲げない一心に、そこを貫かしてもらうという事。毎日例えば日参なら日参をさせてもらう。何かそこに口実が出来る。昨日はちょっと頭が痛うございましたものですから。昨日私はお参りしよったらあなた人がいっぱい出て来ましたものですから。それにも便乗してお参りだけじゃなかった事が、かえってホッとしたような気持ちのような人がある。
 神に一心とはね、例えばそう言う様な場合であっても、頭が痛いんなら水どんかぶってでも参るぐらいな勢いが必要なんです信心には。例えば人が訪ねてみえた、はあちょとすいませんけども、今金光様にもう参りかけとりますからまた来て下さい。これなんですよ。そういう一心が神に届くのです。やはり神様に聞いて頂かなければいけないでしょうが。信心させて頂く者の言わば姿勢である。
  他派御祈念をさせて頂く時の姿勢である。と言う様な事を、九十七節は教えておられると思うんですけれども。今日私が頂いた事はです。只今聞いて頂きましたように、私共が逃げ腰になるという事。それで後ろから止められて帯を掴まれると、帯がぱらぱらと解けてしまう。はあよかった逃げおおせたと。言わばそんなのがありますよ。私は月次祭の時なんかは、まあ終わりましてから裏でお茶を一服頂きます。
 それでもう先生に見つけられると、また残れと言われるけんと思うてから、もうこそうっと帰る人がおるんです。そしたらそげんとどんに限ってから、あらあんたもう帰りよるのと言われるもんで、あっしもうたち言うてから頭かきよる。まあそれはねまあ私とその人の事ですから、大した事ないにしましても信心の上で、そう言う様な事があります。ほらまた今夜捕まえられるなら、一時までも二時まてもまた先生のお相手をせんならんと思うてから、逃げ腰になる。
 よし先生が泊まれと仰るなら泊まるという腹でね、向かう事だと信心とは。私は神様への一心というのはね、もう信心が逃げ腰になったら一心は出らないと思う。そこでです、そういう例えば逃げ腰を作らんで済むための信心にです、どういう事が、事かという事になります。これは久富さんがもう昔頂かれた、御教えの中に「何事も素直心の一つにて、雲の上まで登る道あり」と頂いた。
 全ての事がもう素直心の一つ信心はその馬鹿ほどに素直な心という事。もうその素直心一つで、神様にもなれるぞという事。この素直心というものはですね、いわゆる今日私が頂いておる逃げ腰ではない。それは言うならば泣く泣くでも「はい」という心なのですからね。自分の理屈を言わない。今日はこんなわけですから後は言わん。神様が残れと仰りゃ「はい」という心なのです。
 「神に一心は届かぬ」と、「素直心の一つにて」とは、こう同じような気が致します。素直心一つという事は素直心一心という事、一つの心という事なんです。もう神様の前には無条件。それが今日はここでは一心に通ずることだと思います。はあ今日はこういう用事があるんだけれどもなと、やっぱ思う事もありますよね。けれどもそれを言わずにね、「はい」という心なんです。
 だから「はい」という心、その心が私は素直な心、素直心だと思う。その素直心一つで神様にもなれるんだと。雲の上までも登る道がついてくるのだ。もちろん、おかげが受けられるんだ。他にはなんにも取り得はないけれども、ただその素直心一つという事は、素直心一心という事になる。神に一心とはとは、そういう事だとこう思う。私はもう十四、五年も前でしたかね。
 御理解集の中に私が話しをしとる事の中にもし私にね、今ここに家、蔵、財産があるとするならね。その家も蔵も財産も全てがね。私の「はい」というその心から生まれたんだという意味の事をお話しとりますね。いかにその「はい」という言葉がね、偉大な働きを成すかという事が分かるでしょう。いかにその「はい」という事がね一心に通ずるんだという事が分かるでしょう。
 そりゃなかなか「はい」と言えない事もあるけれども、そら泣く泣くでも「はい」という心なのです。その「はい」の一心がね、もし私に家があり蔵があり財産があるならば、その「はい」の中から生まれたんだという事です。三代金光様が御年わずか、まだ13歳でおありである時に、父金光様、二代金光様がお亡くなりになられた。そこでその後を御受けにならねばならん。二代様もまだあれは子供だけれども、私の後を継がせて下さいと周囲の方達に遺言して亡くなられた。
 とにかく座っておけば楽じゃと、金光様にはそうお伝えなさった。それだからそれこそ朝の四時から終日御結界に。言わば遊びたい盛りの金光様が御神勤下さる事になった。親金光様は座っておれば楽じゃとおおせられたけれど、とてもとても楽の段じゃなかった。それこそ泣く泣く辛抱しいしいに座っておったと述解しておられます。親金光様が仰ったからと言うて、それを素直に「はい」と受けられた。座っておれば楽と仰ったから、座っておったけれども、決して楽な事ではなかった。
 それこそ泣く泣く辛抱しいしいに辛抱させて頂いたと言うておられる。そう辛抱しいしいに座っておりましたら。思う事も無くなり欲しい物も無くなり、只有難うて有難うてという心持ちが開けてきておられます。いかにその「はい」という事を貫くという事がです「雲の上までも昇る道がある」という事がこの三代金光様の事だけでも分かるでしょう。そしてそれこそ驚くなかれ七十年間という間を座り抜かれたんですから。
 もう前にも先にもこういう言わば、宗教家はもう出るまいと言われる程しの修行をし続けられた。所謂生神の徳を嫌が上にもお継ぎになられての事であった。神に一心とは私は、その様な事だと思うんです。拝む姿勢または信心をさせて頂く者の姿勢。物音雑音を聞く様な事ではと。聞こえて来てもそれに耳を貸さない。只まっしぐらに神様のほうへ、ひた向きに進ませて頂くというその一心が神に届くとこう仰る。
 だからまあその一心を、もう少し具体的に言うと、今日は私はね一つ逃げ腰を作っちゃならんという事。先生の前に行きよったら、なんか御用を言いつけられでもするなら困るけんがち言うちから。そこを抜き足差し足で逃げて帰るような事ではね、神に一心は届かんという事。だから逃げ腰ではなくて反対にです、自分のほうから向こうて行くと言う様な、一つの「元気な心」と言おうかね。
 そういう心が信心には必要であるという事。そこでほんなら逃げ腰を、逃げ腰ではない、おかげを頂くためにです。例えば心には逃げ腰のような気持ちが起ってまいりましてもです。そこを一つ本気で神様の前には素直になろうぞという気持です。そげな場合には、本当に、先生、そら、こげんの方がと言いたい時もあろうけれども、そこを「はい」という事で受けて行こうという決心なんでです。
 手近なところでは、私の、もしおかげを受けてあるものがあるとするならば、私のおかげが全てが、その「はい」の中から生まれて来ておる。「はい」を言うたばっかりに恥ずかしい思いをする事もあった。「はい」を言うたばっかりに損する様な事もあった。やはり「はい」と言うたばっかりに、きつい辛い思いをする事もあったけれどです。そこを貫かせて頂きよったら、家も蔵も財産もそれに伴うてきた。
 それをいよいよ完璧なものになさったのが三代金光様だと。「はい」と言う事は、只、座っておりさえすれば楽と言われたけれども、実際は楽じゃなかった。親金光様が、楽と言われたけれども、楽じゃなかったから。こりゃもうやめたぞと言われとったら、今日の金光教はなかっただろう。けれどもね、その楽になられるまで辛抱された。思うこともなくなられた、欲しい物もなくなられた。
 そしてあるのは、どっから湧いてくるか分からんほどしの、有難うて有難うてというものだけが残った。今光様の御晩年は、私共がお取り次ぎを願わせて頂いても、全然、もうほとんどお言葉を下さらなかったですね。ただお取り次ぎを願うと、ただ「はいはい、はい」と仰るだけでした。私は今日思うのにあの「はい」の素晴らしかった事。そして私共にもです、こういう素晴らしい「はい」が言えれる、あなた方になりなさいよという手本を示しておられたように。
 今日は私は感じさせて頂いた。金光様は、ただ「はい」「はい」とだけしか仰らなかった。それは私共に、言わば生きた御理解を下さってあったんだと。こと神様の前にはもう「はい」の一語より他にはないのだ。言い訳もない逃げ腰もない本気で神様の前に素直にならして頂く。そこから「雲の上までも昇る道」が開けてくる。今日は九十七節から、この様な事を頂いておりますね。
   どうぞ。